不定期連載・日本海からルワンダへ 第0回~15歳の田舎モンの憂鬱~(7月27日)
2005年 07月 27日
この活動をはじめて以来、多くの方に「なぜそこまでこの映画にこだわるのか」という質問を頂きました。また私が2000年にルワンダ一人旅をしたことを知る方からは「ぜひそのときのことをサイトで紹介すべき」という声も多く頂きました。
「ルワンダ旅行」に関しては、NGOなどを通じて救援活動・平和運動という形で現地に赴かれた方も多いと思います。その一方で、言うなれば‘好奇心’だけであの地へ向かった自分の体験をアレコレ語ることに少し抵抗がありました。しかし、せっかくこの‘活動日誌’という場をいただき、好き勝手に語らせてもらっている以上、やはりそれは避けては通れないものだと思いました。そしてその必要があると思いました。ということで、何回かに分けて「2000年ルワンダ旅日誌」的なものを掲載させて頂きたいと思います。
(と、言っても約2週間のアフリカ滞在でルワンダで過ごしたのは2日程で、その大半はケニア・ウガンダで過ごすことになったのですが・・・)
ということで、まずは「第0回」として私が2000年にルワンダに旅行するきっかけとなった、1994年当時のオハナシから。
~15歳の田舎モンの憂鬱~
今でも、その新聞記事の切り抜きがあります。日付は94年5月。‘水を求めて’と題された記事。ルワンダ難民が大行列で水を抱えながら歩く写真と共に、ルワンダからタンザニアへと難民が溢れていることが伝えられています。
その記事を見たとき自分は15歳、日本海沿いの小さな田舎町に住むフツーの高校1年生でした。いろんなことに期待を膨らませて入学したのはいいものの、学校では早くも2年後に控えた大学受験のハナシを毎日のように聞かされ、うんざりしていた頃です。
その記事の写真、一番手前に、一人の少年が写っていました。何百人、何千人と続く難民の行列のなか、多くの人がポリタンクに詰められた重たい水を抱えながら伏目がちに歩いているなかで、彼だけがカメラのファインダー越しにこちらに向かって強い視線を投げかけていました。
なにひとつ不自由のない生活を送りながらも、不満と文句を垂れ流すことばかりに時間を費やしていた自分にとって、その6歳くらいの少年の瞳は余りに強烈で、忘れることのできないものでした。
そしてそれ以降、まるで「その少年のその後」を探るかのように、(そしてそんな情報はあるはずもないのですが)、連日新聞を開いては「ルワンダ関連」の記事を探し求め、ファイルする日々が続きました。そして、そうする中で、あの地で、とんでもないことが起こっていることを知りました。
今振り返るに、あの当時の自分が強く感じていたのは二つの大きな‘違和感’だった気がします。
ひとつは、15歳の自分が日本で過ごす日常と、遠いアフリカの小さな国で‘いま、当たり前のように行われていること’の途方もないギャップ。自分よりも幼い子供が否応なく殺したり、殺されたりしている。一方で、自分は‘リッパな大人になるために’ホントに役に立つのかも分からない、年号やら元素記号やら公式を次から次へとアタマに詰め込むことに多くの時間を費やしている。もちろんそれはそれで大切なことであるとはアタマでは理解しているのですが、その2つの現実の間でバランスをうまく取ることが、どうにも難しかったのでした。
「期末テストを一回受けている間に、何十人もの子供が殺されている、それはたまたまアフリカの小さな国だったけれど、これがとなりの街のハナシだったらエライことだぜ、なんかオカシナ話じゃねえか」そんな‘違和感’だった気もします。
もうひとつは、自分がこれまで小学校・中学校と学んできた‘世界の歴史’、アウシュビッツや原爆や、といった事柄に比べても、このルワンダで起きていることは負けず劣らずの(という表現は適切ではないと思うのですが)大事件であるように思いました。15歳なりに。ところが、新聞やテレビの報道を見るに、‘どうやらそんなことはないよ’という雰囲気でした。ここでも何となく違和感を感じました。
今でも、何をきっかけに、こういった厄介な、ありがちな‘十代の憂鬱’と自分がうまく付き合っていく術をつかんでいったのか分かりません。が、あるいは映画やロックや文学や友人・家族が、「いま、自分が見つめるべき現実」を教えてくれたのかもしれません。
しかし、結局それは「とりあえずフタをしておいた」に過ぎなかったようです。
高校を卒業し、大学に入学し、卒業を控える頃になっても‘15歳のときに感じた、考えたアレコレ’はしっかりとアタマの片隅に残っていたのでした。
と、いうことで。学生生活最後の夏休み、海外旅行すら経験のない自分に対して周囲は「やめとけ」と口を揃えましたが、実際に自分の目で足で、ルワンダという土地を確認する旅をする決意をしたのでした。
「ルワンダ旅行」に関しては、NGOなどを通じて救援活動・平和運動という形で現地に赴かれた方も多いと思います。その一方で、言うなれば‘好奇心’だけであの地へ向かった自分の体験をアレコレ語ることに少し抵抗がありました。しかし、せっかくこの‘活動日誌’という場をいただき、好き勝手に語らせてもらっている以上、やはりそれは避けては通れないものだと思いました。そしてその必要があると思いました。ということで、何回かに分けて「2000年ルワンダ旅日誌」的なものを掲載させて頂きたいと思います。
(と、言っても約2週間のアフリカ滞在でルワンダで過ごしたのは2日程で、その大半はケニア・ウガンダで過ごすことになったのですが・・・)
ということで、まずは「第0回」として私が2000年にルワンダに旅行するきっかけとなった、1994年当時のオハナシから。
~15歳の田舎モンの憂鬱~
今でも、その新聞記事の切り抜きがあります。日付は94年5月。‘水を求めて’と題された記事。ルワンダ難民が大行列で水を抱えながら歩く写真と共に、ルワンダからタンザニアへと難民が溢れていることが伝えられています。
その記事を見たとき自分は15歳、日本海沿いの小さな田舎町に住むフツーの高校1年生でした。いろんなことに期待を膨らませて入学したのはいいものの、学校では早くも2年後に控えた大学受験のハナシを毎日のように聞かされ、うんざりしていた頃です。
その記事の写真、一番手前に、一人の少年が写っていました。何百人、何千人と続く難民の行列のなか、多くの人がポリタンクに詰められた重たい水を抱えながら伏目がちに歩いているなかで、彼だけがカメラのファインダー越しにこちらに向かって強い視線を投げかけていました。
なにひとつ不自由のない生活を送りながらも、不満と文句を垂れ流すことばかりに時間を費やしていた自分にとって、その6歳くらいの少年の瞳は余りに強烈で、忘れることのできないものでした。
そしてそれ以降、まるで「その少年のその後」を探るかのように、(そしてそんな情報はあるはずもないのですが)、連日新聞を開いては「ルワンダ関連」の記事を探し求め、ファイルする日々が続きました。そして、そうする中で、あの地で、とんでもないことが起こっていることを知りました。
今振り返るに、あの当時の自分が強く感じていたのは二つの大きな‘違和感’だった気がします。
ひとつは、15歳の自分が日本で過ごす日常と、遠いアフリカの小さな国で‘いま、当たり前のように行われていること’の途方もないギャップ。自分よりも幼い子供が否応なく殺したり、殺されたりしている。一方で、自分は‘リッパな大人になるために’ホントに役に立つのかも分からない、年号やら元素記号やら公式を次から次へとアタマに詰め込むことに多くの時間を費やしている。もちろんそれはそれで大切なことであるとはアタマでは理解しているのですが、その2つの現実の間でバランスをうまく取ることが、どうにも難しかったのでした。
「期末テストを一回受けている間に、何十人もの子供が殺されている、それはたまたまアフリカの小さな国だったけれど、これがとなりの街のハナシだったらエライことだぜ、なんかオカシナ話じゃねえか」そんな‘違和感’だった気もします。
もうひとつは、自分がこれまで小学校・中学校と学んできた‘世界の歴史’、アウシュビッツや原爆や、といった事柄に比べても、このルワンダで起きていることは負けず劣らずの(という表現は適切ではないと思うのですが)大事件であるように思いました。15歳なりに。ところが、新聞やテレビの報道を見るに、‘どうやらそんなことはないよ’という雰囲気でした。ここでも何となく違和感を感じました。
今でも、何をきっかけに、こういった厄介な、ありがちな‘十代の憂鬱’と自分がうまく付き合っていく術をつかんでいったのか分かりません。が、あるいは映画やロックや文学や友人・家族が、「いま、自分が見つめるべき現実」を教えてくれたのかもしれません。
しかし、結局それは「とりあえずフタをしておいた」に過ぎなかったようです。
高校を卒業し、大学に入学し、卒業を控える頃になっても‘15歳のときに感じた、考えたアレコレ’はしっかりとアタマの片隅に残っていたのでした。
と、いうことで。学生生活最後の夏休み、海外旅行すら経験のない自分に対して周囲は「やめとけ」と口を揃えましたが、実際に自分の目で足で、ルワンダという土地を確認する旅をする決意をしたのでした。
by hotel_rwanda
| 2005-07-27 01:19
| 『ホテル・ルワンダ』活動日誌